PCを使いこなせるようになりたい

すごい偏見なのだが、俺には世の中のPCユーザーのほとんどがPCを使っているように見えない。使われているように見える(もちろん俺も含めて)。特に、たとえば自分の使っているマシンの性能の話とかをされるとどうにも…その高性能なマシンに使われているようにしか見えないのだ。おそらく俺の奥深くに「良いものを作るのに道具の善し悪しは関係ない」というくだらない思いこみがあるからなのだろうが…。
たとえばネットをするためとかメールを見るためとか、挙げ句の果てにはテレビを録画するためとか音楽を聴くためにPCを買おうとする人が世の中にいる。乱暴な言い方だが、そんなことのために買われたPCがかわいそうだと考えてしまう。買われたその物体はテレビよりも遙かに高性能なのに、その性能がテレビに写るものを高画質かつ軽いサイズにエンコードするために使われているのかと思うと、もう胸が詰まる思いだ。確かに性能が良くないとリアルタイムエンコードはできないだろう、そりゃ確かにそうなんだろうけど、しかしその装置はそんな程度のもんじゃない、下手すりゃテレビに写っているその映像を作ることだって可能な装置なんだぞ、と叫びたい。
正直、現在のPCの性能は有り余りすぎている感がある。アポロ11号に積まれていたCPUはファミコン以下の性能だったらしいが、それでも月へ行って帰ってくるという大仕事を果たすのには十分な性能だったらしい。現在、人間がやらなければならない仕事の中で、これほど「CPUの性能対実績」の比が尋常じゃない仕事があるのだろうか。そんなものはもうほとんど無いだろう。現在のCPUには、これ以上の性能は必要無いと考えている。
今の自分が使っているPCも、自分の要求(Flash制作・CGI制作・音楽制作・画像制作・動画制作・印刷物制作・その他もろもろ)を満たすのには十分すぎる性能だ。しかし、このマシンはもうすでに時代遅れだと言われる。きっと自分のマシン以上の性能…それこそすさまじい性能を持った(自分のマシンでさえすさまじい性能だと思うのに)マシンがたくさん存在するということなのであろう。そんなマシンを保有している人たちは、そのマシンに何をやらせているのだろうか。本当にそこまで性能が必要なのだろうか。
CPUだけではない。それを一番実感するのはHDDだ。たとえばHDDの容量が10GBしか無くて、作業領域として必要な容量が明らかにそれ以上必要だと解っているとき(たとえば最低でも30GBはほしい時)に、あらかじめ何百GBのHDDを付け足しておくというのは本当に正しい方法なのだろうかと考えてしまうのが俺という人間…むしろ、他に方法は無いのかと考えないのだろうか?たとえば自分のマシンがLAN上にあって、LAN上に大容量HDDを積んでいるマシンがあるなら、そこに一時的にファイルを待避させておくことだって可能なはずだ。WANなら、たとえば誰かの立ててくれたFTPサーバにアップロードしておくことだって可能だ。この考え方が自分のダメなところなのだろうが…どうせ何百GBのHDDを買ったところで、そのHDDの寿命がくるまでにどれだけの領域を使うことができる?と思う。
HDDは保存をすること以外にも、どこに保存されたデータだろうと瞬時に取り出すことができるという特徴があるのだから、保存されたデータを取り出すことをしないと本当の実力が発揮できないだろうと思う。自分の感覚では理解できないほど大容量のHDDを持っている人たちが世の中にはいっぱいいるわけだが、そういう人はHDDからデータを何度取り出したことがあるのだろうか?というのも、そんな大容量のHDDを使いこなすことは自分には絶対にできないだろうと思うからだ。4.7GBのDVDに120分の映画が1本入るとすると、たとえば100GBのHDDには2553.1分(42.55時間)の映像が保存できることになる。つまり、信号のもっとも非効率な使い方である(と俺は思う)動画でさえ、100GB分のデータを1回取り出すのに丸1.77日もかかる。非効率な動画を1回だけで、だ。それを何回もやるとしたら、それに比例してかかる時間も増える。100回使うのに177日もかかってしまうのだ。それは短い人生の何分の一だろうか?俺にとって、HDDを「使う」というのはそういうことだ。上記の内容から理解できると思うが、100GBのHDDを使うことなど自分には絶対に不可能だ。それどころか普通に使っている分には10GBだって不可能なのに(30GBの領域が必要になったのは動画を編集するためだが、そのうちの25GBは削り取る分だった…つまり30GBの領域は25GBを削るための領域だった)。それにもかかわらず、店で売っているHDDの最低ラインは80GBだ。俺には全く理解できない。このような恐ろしいHDDの積まれているPCを使いこなすことなど絶対にできないだろう。

箸って便利

これを使えば、PCを弄ったり原稿を描いたりしながらポテチが食べられる!手を汚さないから!そもそもPC弄ったり原稿描いてる時にそんなもの食うなよボケと言われたらそれまでなんだけど、それでも無性に食べたくなることがあるのだ!何を隠そう、この文章を書いている最中にも俺は噛むほど美味いブラックペッパーのポテチを食っている!
ところで、箸ってこういう時にはすごく便利なんだけど、他に使い道があまりないのよね…。箸って「正しく」使うことが(どちらかというと)難しいものだと思うのよ。「広義的には『箸の正しい使い方』なんて存在しない!」と言われそうだが、それじゃあ貴方は物体を摘む目的以外で箸を使うの?と言いたい。摘む目的で使っていない2本の棒は「箸」じゃないからね。
…さっき「正しく」って言ったんだけど、実は最近、「正しいことって何なんだろう」と考えるようになってきた自分がいる。卑怯な理論を繰り広げそうになる前に「何にとって」正しいのかを明確にしておくと、「この世の全てにとって『正しい』もの」である。この定義でいくと、例えば人を殺すのは「正しくない」とは言い切れない。生きるために生物を殺している人間は間違ったことをしていると言い切れるのか?貴方は生物を殺さずに生きていけるのか?そもそも、この論争は無機物には関係しない。…そうすると、世の中で唯一正しいのは物理法則だけになる。物体Aと物体Bが衝突すれば双方に同じ大きさの力が反対方向に作用し、それなりの影響を及ぼす。光の速度は座標系に関わらず一定である。その他諸々。プログラムに関しても同じことが言えるのではないか?仕様書通りに動くプログラムならば、プログラミング言語の選択やアルゴリズムの選択に関わらず、間違ったものなど何一つ存在しない…と俺は信じている。
はっきりしたことは解らないが、ひょっとしたら将来の俺はマジで「正しい」「間違っている」で判断される世界ではない世界に足を踏み入れることになるかもしれないのだ。ぶっちゃけ芸術系って奴なんだけど、この世界って「間違ったこと」が無いことがかえって仇に出るような気がする。正しいことだけをやっていればいいってもんじゃないからさ。レールを自分で引かなきゃならない。
そんなわけで、俺はポテチを箸で食うという行為は決して間違っていないと思う。そして、来週がテストだというのにこんな文章を真剣に書いている自分は相当間違ったことをしていると思う。